「つかのまのこいびと」
2008.12/24池辺エッセイ作品
「エッセイの書き方-池辺クラス」の秀作集から、講師推薦の作品をご紹介します。
講師からのあたたかい評とともに、皆様の心に届く作品になっていると思います。ぜひご一読ください。
「つかのまのこいびと」 受講者 C.K.(福岡県・30代・女性)
家事で一番好きなこと。それは貝の砂ぬき。料理も好きだが、砂ぬきは別格だ。既に「家事」ではなく、「趣味」だと言ってもいい。
まず、容器は平たいものが良い。遠浅のイメージで、煮魚用の鍋や大鉢などを使う。吐いた砂を貝が再び吸い込まないようにざるや網目状のものを底へ敷きつめておく。
次に、流水下で貝同士を擦り合わせてよく洗い、用意の器に重ならないように広げる。別の容器に水一カップ、天然塩小さじ一を入れてレンジで数秒加熱。ほのかに温かい程度に加減して塩を十分に溶かし、水と塩とをなじませるため、少し寝かせておく。
さて、これを速くもなく、遅くもない勢いで、貝の横あいから注いでいく。いかにも、「さあ、潮が満ちて来ましたよ」という手加減が望ましい。塩水を張るのは貝の一番高いところがやや出る程度。このように注いで、全てが貝の気に入ると、
「ぷちぷち......、くちくち......」
とかすかな音を立て、貝は小さな気泡を吐き出す。これさえ出れば後はそのままでいい。しかし、出ない時は「失敗」で、いつまで待ってもぴくりともしてくれない。その時は速やかに一からやり直す。
貝に砂を吐かせるのに他の術はない。力ずくでは固く閉じこもるだけである。駄目となったらどうでも駄目、この気難しさがこた堪えられない。経験と知恵をよ 縒り合わせ、堅い貝の口を開かせることが出来た時、わけもなく嬉しい。これはもちろん、食べるうえでの快適さや味のための「下ごしらえ」なのだが、作業の 最中は一切忘れている。まるでかたく頑なな恋人のこころを押し開くように、どうしたら気に入ってくれるのだろうかと工夫を尽くし、丁寧に段階を踏んで、閉 ざされた秘密を知ろうとするのに似ている。
うまく出来た器の中は「むき身」ではないのかというほど寛いでいる。潮は盛んに噴き上げるし、ぐるんぐるんと殻を振り回す者もいて、買って来た時とは大違いの賑やかさだ。
面白くて愛らしいので、許されるならいつまでも眺めていたい。砂ぬきをしている時はしばしば台所に行き、中を覗き込んではにやにやする。夜には容赦なく火に掛けて、山姥よろしく鍋をかき混ぜ、潮汁にしてしまうのだが、それまでは可愛い、私のこいびと。
【講師評】参りました。読後すぐさまアサリを買ってきて、記述のとおりにやってみました。塩水を鍋のふちから注ぎ入れると同時にアサリがざわめき、吻からピュッピュッと水を吹き出すさまを目にして、思わず大声を上げ、妻を呼び寄せました。彼女も、ワー、ワー。(池辺史生)
